高句麗王若光

埼玉県にある高麗神社へ参拝してきました。

 

高麗神社のそばには高句麗王若光のお墓があるのですが、

 

王様に会いたくて高麗神社と聖天院を参りました。

 

 

お墓の横に書かれてあった王様のこと。

 

今からおよそ1300年前、高句麗滅亡により、我が国に亡命してきた民のうち、

 

駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七ヶ国の高麗人1799人を716年

 

武蔵国に移して高麗郡を設置した。続日本紀(797年)によれば、高麗王若光は

 

高麗郡の長として広野を開き、産業を興し、民生を安定し大いに治績を収めた。

 

若光は没後、神に祀られた(現在の高麗神社)。侍念僧勝楽は高麗王若光の

 

冥福を祈らんがため一寺を建立したが果たせず、若光の3子聖雲が師の意志をつぎ、

 

勝楽が高句麗から携えてきた観喜天(聖天)を安置して、

 

師の遺骨を納め冥福祈り開基したものである。その寺が高麗山聖天院勝楽寺である、

 

末寺54を有する古刹がそれである】

 

 

在る方から母方の苗字は、元々神の言葉を降ろしていた家系で

 

高貴な存在だったことを教えていただいたことがあります。

 

高麗神社と繋がりがあるから行ってみるといいと・・。

 

で、今回の参拝となったわけです。

 

御寺さんに入ってから、私の名前をずーーっと呼ばれていたのですが、

 

王様のお墓がわからずご本殿でご挨拶をさせていただいたあと

 

慰霊塔が見えたのでそちらに向かってみましたが、王様のお墓は見つからず・・・。

慰霊塔の前で手を合せ、当時、亡くなられた御霊の供養を捧げました。

 

手を合せて祈りを始めてから、立てかけてあった塔婆が

 

カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ・・・・・・と鳴り始めて

 

祈りを終えたらピタッと鳴りやみました。

 

想いが伝わったことを強く感じつつ、

 

幸せな霊界で過ごされますように祈りました。

 

 

現世で、闘いは国と国が争っていますし、

 

敵国にされた苦しみ、悲しみを抱えたまま生きていらっしゃる方々の想いは

 

闘いを経験していない私には「どれほどの想いだったことでしょう・・」と、

 

想いを寄せる気持ちはあっても、戦争を経験していない私がしゃしゃり出て

 

何かを伝えるという生意気なことなど絶対にできませんが、

 

亡くなられた英霊の皆さまや戦争で苦しい想いで亡くなられた御霊の皆さまが

 

霊界で幸せでありますようにと祈りを捧げることはさせていただいています。

 

どんな想いだったことだろうと、胸が痛みます。

 

だから、そっと手を合せて御幸せを祈らせていただきたいのです。

 

生意気ですみません。。。

 

だけど、その場所、その場所で、供養を捧げていると

 

御霊の皆さまは応えてくださいます。

 

 

本当に有り難いことです。

 

 

慰霊塔での供養を捧げたあと、境内の地図を確認したら

 

高句麗王のお墓の場所がわかったのでお墓に向かいました。

 

きっと、最初に高句麗王のお墓に向かっていたら

 

慰霊塔に気づくことはなかったので、導かれたのかなと感じています。

御寺さんに入ってから私の名を呼んでくださっていた王様の前で手を合せると

 

王様の想いが入ってきました。

 

「王様、なぜこの土地で治めることができたのか、いまわかりました。

 

王様の人柄と慈悲の想いが伝わってきます」

 

そうお伝えすると、王様は

 

「何事も慈悲じゃよ、辛くとも、苦しくとも、何事も慈悲じゃ」・・と。

 

「かしこまりました」

 

王様は、とても慈悲深い方であったことを強く感じてなりません。

 

 

王様とお逢いできて本当に良かったです。

 

王様が祀られている高麗神社にも参拝しました。

 

日本式ではなく韓国の造りです。

 

1300年経った今でも崇められていることで、王様の人柄が伝わります。

 

もちろん、実際にはわかりませんが、これは私が感じた王様の想いと人柄です。

神社の裏手にあったこの建物は、高麗神社の宮司さんが代々住まわれてきた住居だそうで

 

国の重要文化財に指定されて大切にされてありました。

今回、高麗神社と聖天院、そして高句麗人が住まわれてきた土地に向かったことは、

 

私にとって、とても意味深いものでした。

 

ありがとうございます。

 

感謝します。

 

 

たくさんの愛と感謝をこめて♡

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